生き返らせること


ちょっと前に某映画監督が『ドミノ』や『デジャヴ』でトニー・スコットがしようとしていたのは「死者を生き返らせること」だと呟いていた。こちらも同じくらいの時期にやっぱりその二作を見ていて、作品に、そして作品を受けたその言葉に、じんとくるものがあった。


映画は生きられた時間をその姿のまま殺して冷凍保存する。冷凍保存された死体を動かすことで、動いている時間だけ、あたかも生きた時間が生き返ったかのように、見える。見ている間、見ている者にとって、それは「あたかも、生きている」。ゾンビが最初は「あたかも、生きている」ように見えるように。


『ドミノ』で死ぬシーンが描かれるドミノと仲間たち、金持ちのボンボンとろくでなしたちは、「あたかも、死んでいる」ように描かれるが、結局「あたかも、生きている」ように生き続けている。それらは同じコインの裏表にすぎない。『デジャヴ』で「あたかも、救われた」かのように見えた世界は、時間の流れとともに支流となり、消滅していくかもしれない。


「『アンストッパブル』は古典的」と言う人がいてどうにも解せない思いになるのは、電車が橋を渡ってしまっていること、その後は「別の男」が突如現れて止める、ということがあるからだ。「橋にかかる前に電車を止めねばならない」とみなが思っていたところに、「止めずにあっち行くしかないか!」という選択肢が突如現れ、「あっちに行ってしまった」電車を止めるすべはなくなる。それを、ひょっこりと現れた男が活躍してあっさりと止める。古典映画としてはここは余計だろう。死の列車は二人を乗せたまま、「あっち」に行ってしまうのだ。


トニー・スコットの映画では誰も正真正銘のヒーローになれない。できるのは、せいぜい照明塔の上でジグを踊って笑われるくらいだ。その意味で "Too Late The Hero"(アルドリッチ『燃える戦場』の原題)の精神をトニー・スコットは受け継いでいた。「あたかも、生きている」だけかもしれないが、それでもなお、死者を生き返らせようとし、そのために「あっち」に行ってしまう、そんな人々をつくり出した。そんなことを、今になって思う。