カーソン・マッカラーズ

『心は孤独な狩人』(村上春樹 訳)でハマった。同じく村上春樹訳の『結婚式のメンバー』は読んでいて、いい小説だなと思ったけれど、感動まではしなかった。今回、マッカラーズをいくつか読んでみて、『結婚式のメンバー』はマッカラーズの作品中で例外的に明るいものなのだなと思った。他の作品は暗すぎて、若い人に薦めたりする気はまったくしない。『狩人』の後、『悲しき酒場の唄』『針のない時計』と読み、『黄金の眼に映るもの』を読みかけている。『結婚式のメンバー』の古い訳(加島祥造 訳)も、間違えて買ってしまったので(『夏の黄昏』というタイトルになっている)、読もうと思う。

カーソン・マッカラーズの小説は暗い。愛は成就しない。願いは叶わない。思いは伝わらない。連帯は成立しない。悲劇は止められない。人は呆気なく死ぬ。傷ついた関係は、二度と元に戻らない。溢れんばかりの思いを心のうちに抱えた人と人との生がつかの間、交わるが、噛み合うことはなく、すれ違うか、ぶつかり合うかするばかり。それぞれが死ぬか、諦めるか、次の町に移動するか、生活の中に埋もれて薄まっていくかして、それぞれの孤独の中に帰っていく。心の中に嵐を抱えたまま。全員、生きづらそうだし幸せになる匂いがまったくしない。読んでいて、ふっと引っ張られるので、鬱っぽいときには読まないほうがいい。

『心は孤独な狩人』で、4人がそれぞれ1人の唖に心の内を好き勝手にぶちまけるが、唖はそれぞれの言うことをあまりわかってはいないし、唖が愛しているのはまったく別の人間で、これも不幸な愛情だ。4人が一堂に会したとき、4人はお互いに黙ってしまう。似たような人間たちなのに、というか、似たような人間だから、互いにコミュニケートできない。『悲しき酒場の唄』では完全にすれ違う3角関係が、ほとんど戯画のような形で描かれる。クライマックスシーンは『静かなる男』や『ドノバン珊瑚礁』のジョン・フォードのようだけど、終わった後には虚しさしか残らない。

『針のない時計』もまた、暗くて救いのない小説で、主要な視点人物の2人、重病の薬剤師と耄碌した判事は明らかな差別主義者で、読むのがつらい。ユダヤ人差別、黒人差別。悲劇の臭いしかしない中、案の定、それは起こるのだが、この小説はその後に急展開を見せる。視点人物が飛行機で空に舞い上がるのだが、急に話者が飛行機を追い越して、地球を俯瞰するところにまで上昇する。書いているマッカラーズが視点人物を追い越して前に出てきてしまっている。破綻しているのだけど、この破綻はすごい。ジム・トンプスン読者はジム・トンプスンを思い浮かべてもらうといいかもしれない。視点は上昇し、世界は平和になるのだが、そこから一気に急降下して、汚穢に満ちたこの世界に戻ってくる。自らの意思で。ここの展開はほんとうにすごいので、ぜひそこまでの暗さに耐えて、読んでみていただきたい。想像だけど、マッカラーズは死のうとしたことがおそらく幾度かあるのではないかと思う。死のうとして、戻ってきた人の文章だと思った。いきなりすぎて、ただ呆然とした。地上に戻ってきた後は語りも視点人物レベルに落ち着き、もう一波乱あった後、小説は幕を閉じる。この一波乱がまたすごいのだけど、ここはネタバレになるともったいないので書かない。

カーソン・マッカラーズの小説で、人は幸せにはならないが、小説の中で、人が幸せな瞬間や、結果的に間違っているかもしれないが、幸せだと感じられる瞬間は、確かにある。たとえば、『心は孤独な狩人』で、唖だけが自分の話を理解してくれている、私は理解されている、受け入れられている、と感じられる時間など。実は理解されていないが、理解されているという実感だけは、確かにある。『針のない時計』で、最低の人種差別主義者は、死んだ息子を思って涙する。でも、実際は、息子と父の関係は最悪だった。マッカラーズの小説に出てくる人たちは、小説が終わった後、それぞれの混沌とした内面を持て余しながら、せめて幸せだと感じられた時間の、自分は受け入れられているのではないかと思えた美しい時間の記憶を大事に抱えて生きていっているのではないかと思う。たとえその美しさが完全に勘違いであったとしても、それを否定する権利は誰にもない。