暴力には必ず理由がある

という考え方が嫌いだ。理由があるからといってそれが必ず発現するとは限らない。親に暴力を受けて育った人が、その子にまた暴力を振るってしまう確率は、そうでない環境で育った人より統計的には高いのかもしれない。しかし、必ずそうなるとは限らない。この「限らない」にこそ、にんげんが拠って立つなにものかがある。わたしはそう信じる。


だから、映画版『ヒミズ』やドラマ版『贖罪』を見るにつけ、暴力には必ず理由があるのだ、といかにも深刻な社会派ぶったツラをして進行していく物語には、ただむかむかするばかりだ。どちらも原作もので、わたしはどちらの原作も未読なのでそれがどこから来ているのかは正確にはわからないのだが、少なくとも、黒沢清という映画作家が「理由のある」暴力を描くことに興味などない、というか意識的にそこを避けてきた作家だということは、これまでのフィルモグラフィーが証明しているだろう。園子温が「理由のある」暴力を描くのが好きであることも、最近の題材を眺めていれば何となく想像がつく。わたしは『ヒミズ』以外に見たことはないが。


結果的に暴力に至ったとしても、過去のトラウマやら現在の不幸やらから直結するわけでもないだろうに。もしそうなら、貧乏で孤独な人間が車で歩行者に突っ込みまわって大変だろうに。突発的な凶悪少年事件では、たいていの犯人が「普通の子」だ。誰にだっていくばくかの理由はあるし、誰にも100%の理由はない。Wikipediaで見ると、湊ちひろ青年海外協力隊で2年間海外に赴き、そのあと教師をしていたらしい。たぶんいい人なんだろうけど、この人が教師だったら大嫌いだったろうなあ、となんとなく思う。


追記:
世の中には「100か0か」でしか考えない人がけっこういるものだと思う。今回の福島第一の事故でいちばん怖いのは、「それがどの程度人体に影響するのか、誰にも正確なところがわからない」ことだ。わからないものがいちばん怖い。


今さらだけれどこれまでの黒沢清の映画の怖さはそこにあるのだし、『贖罪』はまったく怖くなかった。いちばん最後の霧はここでアンゲロプロス追悼かと、不意打ちされたのだけれど。