暴力のモード


すこし前になるが、真利子哲也の『NINIFUNI』という映画を見た。


うら寂れた国道沿いを車で彷徨う、若い男。男が浜辺で死んだ後、そこにアイドルグループがPVの撮影にやってくる。


ほとんどこれだけの話なのだが、うら寂れた国道は、海と太陽は、そこにいる人々と無関係にただあるということ。その無関心さを、見事に定着させた映画だった。絶望はそこここに溢れているが、すでに暴力を行うような気力さえ湧かない。冒頭にこそ乾いた暴力が描かれるが、それはまるでコンビニでバイトをするように機械的に、単純労働の疲れを伴って行われる。アイドルグループのマネージャーは撮影前に男の死体がそこにあることを知るが、とくに問題にすることもなく、そのまま撮影の準備を進める。アイドルグループが到着する。PVの撮影が滞りなく、いつものように行われる。撮影の後で男の死体が発見され、警察により淡々と処理が進められる。


少し前までのある種の日本映画は「暴力をどう描くか」に拘っていたように思う。黒沢清しかり、青山真治しかり。わたしも映画美学校に二年間通ったが、やはりそこでもわたしも含め「暴力描写」に拘る者が多かった。それはある種のモードだった、と思う。


しかしおそらく、もう「暴力」の時代ではなくなったのだろう。そんなことを、『NINIFUNI』を見て思った。たぶん暴力は薄められ、拡散され、すでに空気のようなものになってしまっているのではないか。真綿のようにじわじわとこちらの行き場を奪っていくような、環境としての暴力。抵抗もできず、見ることもできず、ただやり過ごすことしかできないような暴力。それに耐えることで、わたしたちはただただ疲弊し、消耗していくのだが、誰が悪いというわけでもない。


と書いていて、まるで放射能じゃないか、と気づいたのだったが。


ともあれ、物理的な暴力のモードは終わった、ということをこの映画は高らかに宣言しているように思えたのだった。そのことにおそらく1981年生まれの真利子哲也は自覚的だ。ガス・ヴァン・サントペドロ・コスタやの影響をそこここに感じるのだが、『エレファント』や『ヴァンダの部屋』で描かれる暴力は、『ラストデイズ』『コロッサル・ユース』のあてどない彷徨へとシフトしていったのだった。だが『NINIFUNI』で描かれる彷徨は、やけに禍々しい。ただ空虚なのではなく、そこここに暴力的なものがギラギラしているのだが、それが「空気」としてそこにある感じ、と言えばよいか。それは『ジェリー』のどこまでも拡がる砂とも違って、どこかじわじわと締めつけてられ、苦しくなるような、しかしはっきりと名指せないようなものだ。それをとりあえずは「無関心」と呼んでみたい。それは同世代として、日々の生活の中でわたしが感じているものでもある。『東京公園』(撮影は『NINIFUNI』と同じ月永雄太)の「公園的なもの」の外にあるもの、とも言えるだろうか。『東京公園』の光司がいずれぶつかるであろうもの。『東京公園』の女性たちが、日々その中で生きているであろうものとも、それは繋がるのかもしれない。


そしておそらくこの「無関心」は東京国際映画祭で上映されたスコリモフスキの新作『エッセンシャル・キリング』にも関係してくるのではないかと思えるのだが、今日はもう寝なければ、ということでとりあえずここまで。


今年30歳の新鋭、真利子哲也の作品を見るのは今回が初めてだったが、とにかく意図にブレがなく、強靱なカットを撮ってくるうえ、次のカットが読めない。予算の使い方もうまい。自主系の監督の中で、断トツだと思う。この監督、きっとやります。