ヒミズ

とにかくテンションを上げて殴ったり叫んだり転げ回ったり泣いたりすればよい。面白そうな台詞を面白く言えばよい。それで映画になると思っている時点で「お前2回くらい死んでこい」だ。それって幼稚園の学芸会で「おしばい」が誉められる基準だろう。はい、よくできましたね!


もちろん染谷くんや二階堂さんは泥にまみれたり水に濡れたり雨に濡れたりして頑張っているのだけれど、そもそも演出の基準が学芸会なので、ただ頑張っただけに終わってしまい。渡辺哲やでんでんや諏訪太朗といった脇役陣はもちろん達者だけれど、あれはあくまで「脇役のわかりやすいキャラ芝居」であって、それを今さら「名演技!」みたいに言われても困る。あの人たちはあれくらいのことは普通にできる人たちなわけで。この監督は役者から搾取しているだけ。そんな中、クボヅカの無表情な好演だけは光っていた。久々に見たけどよかった、クボヅカ。体の動きがちゃんとキャラクターになっていたのは彼だけだったように思う。


男の子が女の子をしきりと平手で殴るのも不愉快きわまりないし、いくら不幸だろうが、そんな男が救われようが救われまいが、どうでもいい。クソでも漏らしながら野たれ死んでくれるのがいちばんいいと思う。そんな男の子につきまとう女の子は『罪と罰』のソーニャあたりが発想元だろうけれど、あの描きかたではただの白痴。セリフの中に「お父さんの死体を見つけた」というのがあったけれど、なんでそのシーンを撮っていないんだろう。自意識を持て余した男の子が街をさまようシーンなんかより、そっちのほうがよっぽど重要なはず。女の子が泥まみれで腐りかけた死体を掘り起こしているシーンがあれば、そして男の子が街から帰ってきたとき、一度閉じた穴が開いて家の中に泥まみれの女の子がいれば、ラスト前夜のシーンにはセリフも蝋燭祭りもいらなかったはずだ。


いかにも90年代的な、自意識もてあましな少年のお話を地震後にやるのも古すぎるけど、そこはまあいいとして。許せないのは、震災後の風景が中学生の自意識の「象徴」として使われていたことだ。津波後の光景は、ただそこにあるもので、何かの「象徴」としてあるわけじゃない。何かを表現するために多くの人が溺れ死んだわけじゃない。若者の未来のために放射能がばらまかれたわけじゃない。当たり前だが、天罰でもない。それらは、ただ起こった。その光景に自分の心象風景を見る馬鹿がいてもそれはそれで勝手だが、そんなことは一人でやっていてほしい。「がんばれ、住田!」と震災後の光景が重ね合わせられるラストカットでは、スクリーンにiPhoneでも投げてやろうかと思った。


古谷実の原作は未読だけれど、そもそも地震を前提とするのなら、原作の話そのものが成立していない、もしくはまったく違ったものになったんじゃなかろうか。また、おそらく原作は、象徴のレベルで語られているんじゃないかと思うのだけれど(画もリアルとは程遠い人だし)、それを何の考えもなしにただ学芸会レベルで具体化してしまったために、ただ陳腐になってしまった。コンクリートブロックで親父を殴り殺した後で「どうしたんだよ!」と連呼、って、ただの馬鹿じゃん。実際に生きている人や実際のものがどうしても映ってしまうのが映画なのだから、象徴レベルの話をやるときは移し替えの工夫がいちばん難しい。しかしそこで努力している痕がまったくなかった。(あまりに丸出しだから、原作は象徴レベルでやってんじゃないのと推測した。)


『EUREKA』から10年以上も経って、地震を挟んでこれだけのものしか撮れないクソ野郎の作品ははじめて見たけど、もう二度と見ない。これ見ていいと言ってる映画学生とか自主映画の人とかがいたら、映画なんてすぐさまやめて、まっとうに働きな。悪いことは言わないから。