ヒアアフター



ヒアアフター』(クリント・イーストウッド)。
昨日は寝すぎて行けなかったクリント御大新作、二日目にして見てきました。


「どんどん透明になってきているが、古典的な意味での透明さとは違う」とパンフ所収の黒沢ー青山両監督対談でも言及されているが、まさに。どんどん希薄になっていくというか、いやもちろん格が違う、と唸る演出は随所にあるのだが、このとりとめのなさは何なのだろうか。


ひとつ言えるのは、イーストウッドの視点が明確に「弱き者」にどんどん絞られていっていることで、しかもそこに、かつてイーストウッド自身が演じた幽霊ガンマンのような「強き者」は現れず、亡霊としてのイーストウッドさえもいない世界、しかし「なにかある」世界……そのような世界が描かれようとしているという、ますます不可思議で精妙なところにクリント御大は突き進んでいるようで。


冒頭、後ろからガツン!ときて瞬時に真俯瞰に切り替わる、そのあまりに冷たい冴えにぞくりとする。中盤、好きになりかけていた女に去られるマット・デイモンの丸まった背中に切なくなる。しかしそれらが突出しない世界、それらはただそれらでしかないような世界、それはとてつもなく残酷で、同時にやさしくもある世界だ。ヒアアフター=来世はあるのか、ないのか。そこに答えはなく、ただそれらを背負って生きざるを得ない人がいる。ただそれだけのこと。どこか突き放されているような、同時に見守られているような世界。「見守られている」という言葉を使ったけれど、その主語は決して「神」でもないし「死者」でもない。じゃあ何なのか。わからない。


そんなようわからん世界を精妙に描き出しつつ、しかしブライス・ダラス・ハワードに目隠しさせて舌を撮るわ、ハワードちゃんが泣き崩れるところは「こんなことする人だっけ?」と思うほどぬけぬけと前進移動で寄っていくわ(ちなみに今回気になったのは前進移動の多さと、これまた黒沢青山対談にもあったが、人が泣くのを堂々と撮っていること。クリントといえば決定的なところで後退移動、という印象があるのだが)。この泣き崩れがまた妙に生々しい。ここでのブライス・ダラス・ハワードの艶めかしさはちょっとすごい。もっともこの泣き崩れはエロで片付けていいカットではなくイーストウッドのテーマが入ってくるところではあるのだが、ゴダールの谷間といい、人間、80になるとこれまでやらなかった種類のエロをやりたくなるのだろうか。


わからない、わからない。これを理解できる日は来るのだろうか。翻弄され圧倒され、腑抜けにさせられたのは間違いない。


そしてブライス・ダラス・ハワードはなぜいつもあんなにかわいいのだろうか。こんなに毎度かわいくていいのだろうか。


(※ベン・アフレック監督作『ザ・タウン』も同日に見ましたが、世界観があまりに『ミスティック・リバー』でいつショーン・ペンが出て来るかとどきどきした。この映画の誠実さは評価すべきなのかそんなもんいらん!と言うべきかと迷い、未だに迷っているが、アフレック本人のお芝居はない、ということだけははっきりしている。結局すべての要素がそこに収斂していっているので、駄目なんじゃないのという気もする。少なくとも『ヒアアフター』の津波シーンの冷酷さを見て、『ザ・タウン』のことは完全にどうでもよくはなったのだけど、それも可哀想だよね。)


(※もう一つ補足。ここに来て「貧困」が正面から、しかも自然に(主義や教条くさくなく)世界の映画に取り上げられるようになってきたのかもしれない、と『ヒアアフター』を見て思ったのだが、私がこれまで気づいていなかっただけだろうか?最近のクローネンバーグの例もあるが、寒々した街を映画で見ることが増えてきたような。)