認知症をめぐって

認知症についての番組をディレクションしました。
NHK Eテレで9月19日(土)14:00〜14:59に放送されます。
(※番組名と固有名詞は大人の事情で書きません……ごめんなさい!)
これ、なかなか興味深いものになったと思います。普段あまり自分からこういうことは言わないのですが。


今回、認知症当事者の方に、無理をおして登壇してもらいました。8年前に45歳で認知症と診断され、その後、当事者の視点から発信を続けている方です。「認知症になった人から世界がどのように見え、感じられるのか」を語ってくれているのですが、ぼく自身、そういう視点で考えることは、この番組を担当する以前は、ほぼありませんでした。今回、この方の言葉に触れたり、当事者視点から書かれた本を読んだりして、なるほどこういう世界なのか、と気づいていった感じです。


認知症といえば、「何もわからなくなっていく」「危ない」「介護がしんどい」というようなイメージが強くありますが、出てくれた方の言葉には、認知症へのそうしたステレオタイプなイメージを鮮やかに打ち破っていく力がありました。工夫すればできることがまだまだあることや、認知症ゆえの苦しみや孤独について。長時間、集中して聴いたり話したりすると、とても疲れるという状態にも関わらず、とても明晰に話してくれました。今回の番組は、この方の言葉を中心に、ドクター2名、ケアの専門家1名にそれをさらに拡げてもらう、という作りになっています。


ここからはまったくもって個人的な見解ですが、今回、当事者の言葉やVTR取材を経て感じたのは、認知症ゆえの脳機能の低下とは「PCのスペックが低くなる」ようなものなんだということです。(誤解を生む表現かもしれませんが、あくまでも「脳機能の低下」についての表現です。)同時に3つ4つとアプリを開けていたのが1つしか開けなくなる、アプリが起動するまでにも時間がかかる、起動しても処理に時間がかかる、という感じなんだなと。


でも、逆に言えば、スペックが低くなってしまったPCは、壊れてまったく起動しないPCとは違うわけで、使い方次第でまだまだ使える。軽めのアプリを1つだけ開いて作業するくらいなら、まだまだできる。それなのに周囲の人は、「あのPCもうアカンな」と見限ったり、イライラしたり、「まったく別物になってしまった」と嘆いたりするわけです。それと、ここはもっとも強調したいのですが、ベースのOSは変わっていない。その人のコアにある考え方や感情は、そのまま残っている。でも、周りに色々言われても、処理速度が落ちているから、うまく言葉で返したり、説明することが難しい。入力が多すぎると処理できないし、入力があって、それを処理しようとしても、うまく出力できなかったりもする。具体的には、自分が今、どこで何をしているのかも、不意にわからなくなってしまって、戸惑ったりする。何か言われているが、わからない。わかっているけど、言葉が出ない。認知症の人は、そんな、とてももどかしい状態にあるのだと思います。(少なくとも初期のうちは。高度などになるとどうなるのか……その時期については、本人の言葉がないため、「わからない」としか今の時点では言いようがない。)


認知症」というと一般には「記憶」や「認知」にばかり目が向いてしまうし、どことなく「あっち側の人」であるかのように捉えてしまいがちです。でも、まず認識すべきは、「進行性の高次脳機能障害である」ということではないかと感じます。というのも、障害は出てくるものの、残っている機能があるわけですが、「あっち側の人」と見なして、できることもさせない、すべて「こっち側の人」が替わってやる、ということをしてしまって、残った機能を使わずにいると、残った機能自体も失われていってしまうからです。しばらく入院して歩かずにいると足の筋肉が弱るのと同じことです。その意味で、「あっち側」だと線引きをして、「あっち側の人」としてしまうことには、倫理的にも医学的にも、非常に問題がある。


脳の機能が低下した状態で、脳の機能が低下していない人たちの中で生きていくのは、どんな感じがするものなのか。あるいは、認知症と宣告されたときのショックと悲しみは、どれほどのものなのか。それはどれほど想像しても、おそらく当事者以外には、わからないものでしょう。介護する家族が本人の感じていることを100%わかっているかといえば、決してそんなことはない。むしろ、家族だから、認知症になる前の状態を知っているからこそ、見えなくなっている点もあるはずです。


だから、まず本人の声を聞いていくことというのが必要なのだと思います。本人にはもう声を発する能力が残っていないかもしれない。思考がまとめられない状態かもしれない。でも、まずは聞いてみる。本人をスルーして最初から家族に聞くのではなく。そういうふうにしていけば、(今はさすがに少なくなってきているでしょうが)少なくとも、認知症の人に赤ちゃん言葉で話しかけるような、あるいは、名前を呼ばずに「おばあちゃん」とだけ呼びかけるような、そんなケアのやり方はなくなっていくのではないか。


もちろん、介護は家族にも、ケアワーカーにも、大変な労働(のわりに報いの少ない労働)で、その大変さをどう軽減できるかはとても大事なことだと強く思います。でも、だからといって、家族やケアスタッフや社会や行政の視点=本人以外の視点だけでことを進めてしまってはいけないんだろうと思います。言葉を変えれば、「あっち側の人をどうするか」「こっちにいる人をあっち側に行かないようにするにはどうするか」というような視点のみで進んでしまってはいけないということです。


それでも、まだまだ、そうした傾向は世の中全体にある。それはなぜかというと、これまで、認知症の人で、声を上げられる人が少なかったからだろうと思います。認知症医療が進んで早期発見が可能になり、進行を止めることはできないにせよ、進行を和らげることのできる薬ができた結果、認知症だけど言語能力が残されている、という人が増え、その中で、社会に向けて自分たちの意見を発信しよう、という人たちが現れた。今回、出てくれた人もそうですし、各国で、当事者による発信が増えてきている。(例えばスコットランド。)そうした人たちが声を上げて始めて、当事者以外に、当事者の感じていることが伝わるようになってきた。これは大きなことで、新たな世界が見えてきつつあるのだと思います。


今回、作りながら、様々な気づきがありました。見てくれる人にも、認知症の人の内面について、どのように感じられる体験なのかについて、考えるきっかけになってくれれば嬉しいです。若年性で言葉も明晰な人が特別なのではなく、すべての認知症の人にも、おそらく、程度や進行の差こそあれ、同じことが起こっているのでしょう。ぼく自身、番組を作りながら、はじめて「認知症の人にとって世界はどのように感じられるのか」について想像してみるようになりました。

社会全体が、認知症の人の声に耳を傾けるようになれば、もっと生きやすい世の中になるのではないでしょうか。誰もが認知症になる可能性を持っているのだから(しかもかなり大きな確率で!)、「認知症になってからの人生」は誰にとっても他人事ではありえないはずです。


※最後に、「認知症の本人が決める」ことについて書かれた記事でいいものがあったので、挙げておきます。善意が結果的に本人の意志をないがしろにしてしまうことがあるという、認知症をめぐる状況をよく表しているものだと思いました。

六車由実さんによる記事 「介護民俗学」へようこそ!(15)「認知症の現場で「当事者の声」はどう扱われるべきか」