灯台守

昨日は久々フィルムセンターにてジャン・グレミヨン灯台守』(1929)。


男が父親と孤島に一月、灯台守として籠もることになるのだが、男は狂犬病の犬に噛まれていて、狂っていく。そして……というだけのお話で82分。波!風!犬!煙!幻影!とイメージの連鎖で綴る、いかにもアヴァンギャルドの血を汲む映画で。仰角多し。絵画的な構図多し。かっこよし。演技はドライヤーとかブレッソンのように抑制されている。


男が狂って、ああもうダメだこいつ、というところの決定的なパン。以降、映画はこの男をあっさり突き放し、父親の視点に移ることになる。この非情さと、「運命が動く」パン。こういうことですよね、と痺れる。当時はパンするのだって楽な作業ではなかったはずで、固定画面の多いこの映画で、パンは厳選して使われている。二人がホール的な場所で対峙する場面とか、最後に立ち上がって上へ行く場面とか。ダンスシーンでくるくる回るキャメラとか犬のイメージが万華鏡的にぼやんと出るとか、そうした遊びにも走りつつ、物語上決定的な箇所は決定的に撮られている。灯台をおおむね「密室」として使い、最後の最後で「塔」=高所として使うという転換も見事。サイレントなのに音が随所に出てくる演出は、すでにトーキーを見据えてのことでもあったのか。


グレミヨンのこれが長編処女作で、客は入らなかったらしい。まあ脚本はジャック・フェデーとなっていてもお話はスカスカだから、物語と心理で見るときついんだろうなあ。それは今も昔もあまり変わらない。ただ、いまの日本映画はひたすら「泣ける」物語と心理の説明芝居ばかりしているけれど、客がそこまでそれを求めているとはどうしても思えない。それって製作側の過剰サービスじゃないの、と思ったりもする。スーパーで買い物したらいちいち「ポイントカードはお持ちですか」→「ないです」のやりとりを繰り返さなきゃならないのと同じようなもので、「まあそれくらいしかたないわな」とみんな思って見ているのではなかろうか。


やはり吹き荒れる風には心が躍るもので、風が吹く映画を見ると、爽快な気分になるのだった。フォードの『ハリケーン』とか、ほぼそれだけで全篇通したような映画だし、もちろん『サンライズ』もあるし、風と水が不思議と映画的なのはなぜなのだろう?