ウィンターズ・ボーン


久しぶりの更新なのですが、最近、『We can't go home again』(ニコラス・レイ)を見てニコラス・レイかっちょいいよなあ、「パンツ履け」は何やったんやろなあ、そしてあのラストは胸を突かれるよなあとか、『悲愁物語』(鈴木清順)を見て、いやこれやっぱり清順/大和屋の最高作だよなあ、でもどう発想したらああいうふうになっていくのかさっぱりわからんけど、ラストのブラウン管融解はこみあげてしかたないですねとか、『ミッション:8ミニッツ』(ダンカン・ジョーンズ)を見て、いやこれほんまようできてておもろい、当初の目的A(列車爆破の真相探し)が別の目的B(オレはそもそもなぜこれをやっているのか)に徐々に移行していった結果、Aから微妙に、しかし決定的に変質した最終地点A’に至るシナリオ構成が見事すぎる、とか、あれこれいい映画を見ていますが、困っていることが一つあって。


ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク)が、今年のベストは『アンストッパブル』とこれなのだと断言できるくらいによかったのだけれど、これのよさを一体どう言語化していいのか、まったくもってよくわからない。「悪い奴はだいたい親戚」なアメリカ南部の小さく貧しく荒んだ田舎。父が失踪し、幼い弟と妹と精神を病んだお母さんを抱えた17歳の少女(『X-MEN ファースト・ジェネレーション』のジェニファー・ローレンス)が父の行方を捜して彷徨する、というだけの話がとりわけ独創的なわけでもなく、ヨーロピアンに撮影に凝りまくっているわけでもなく、一瞬のアクションはえらく冴えているものの、どえらいことをやっているわけでもない。役者の顔は文句なくみんなよかった。


主人公の少女がどんどん悲惨なことになっていくのだけれど、彼女はまったく逃げようとはせず、常に追っていく。そのことによって、事態はますます悪化してゆくのかもしれない。いや、そもそも最初からすべて最低、最初から終わっていたのかもしれない。それでも、いいこともついてくる。


ペドロ・コスタの『コロッサル・ユース』を見たときに、路地がなくなった後の中上健次を思いだした。奇妙な明るさ。『ウィンターズ・ボーン』の少女は、それら男たちとは違って、自分がどこへも行けないことをはじめから受け入れている。いま自分がいるその場所でサヴァイヴしようとする。サヴァイヴするために、幼い弟と妹に銃の使い方を教え、リスの皮の剥ぎ方を教える。淡々とできることをやる、そのあり方にいつしか引き込まれている。女が怖いあの納屋での出来事、暗い夜道での一触即発、そして彷徨の果てに少女が暗い暗い湖の上で体験する出来事。ヒリヒリするような緊張が、そして「痛み」がスクリーンから放射され、わたしはおののいたのだった。しかし何であんなにヒリヒリしていたのだろうか、この映画は。あれは、何だったのだろうか。今もって、よくわからずに困っている。もう一度見てみよう。