same place / same sin


  



「same placeをoccupyすることはできぬ」と漱石は書きつけた。この空間にいる「わたし」は「この空間」を誰かと分けあうことはできない。わたしの身体が占めているスペースに、他人の身体が入ることはできない。私たちは、生まれた瞬間から、常に「ほか」を押しのけて生きている。


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「見られる人」から「見る人」へ、そして「アクションする人」へ。そして……。これが『トガニ 幼き瞳の告発』(ファン・ドンヒョク)の物語だ。罪は以前からそこにあった。ただ知らなかったか、知らない振りをしていただけだった。最初から、「わたし」は罪を負っていたのだ。わたしはその当事者だった。傍観者だと思っていた。しかし、当事者だったのだ、はじめから。当事者でありながら、傍観者だと思っていた。もしくは傍観者のふりをしていた。当事者でありつつ、同時に傍観者であること。


(話題は逸れるが、おそらく今起こっている「脱原発」の運動の根底には、この罪の意識が流れているはずだ。単に「怒り」だけではないはずだ。われわれみんな、原発の電気を使ってきてしまった。原発によって、かろうじて生きながらきたような地域もある。原発に対して、この国の人は決して無垢ではありえない。もちろん、積極的に、罪の意識もなく、あるいは罪とはっきり認識したうえで原発を推進してきた者は断罪されるべきだが、「脱原発」の運動の参加者にも多かれ少なかれ罪はあり、かつそれが程度の差はあるだろうが、自覚されている。そこがこれまでの社会運動とは決定的に異なるのではないか。)


主演の新任美術教師を演じるコン・ユの「見る」芝居。唖然とし、半笑いになり、眺め、目を背け、目を見開き、そしてその先へ……。見ること。聴覚障害の子どもたちが他人の声を聞こうとするとき、それは「見る」ことを通じてしか行えない。伝えようとするとき、「身振り」を通じてしか行えない。手話は体系を持った言語であり、同時に身振りでもあることを、この映画を見てまざまざと実感した。法廷という、言語がすべてを統べる空間で、手話がいかにして闘うか。ある瞬間、それは手話が言語であると同時に、身振りでもある瞬間。その瞬間が、如実にキャメラで捉えられて息を呑む。


実話に基づいているというこの映画には、中途半端な救いはない。見てしまった絶望の先に何があるのか……。それは微かな、微かなものなのだ、おそらく。「希望」とも名指すことのできないような、ほとんど絶望、のような、微かなもの……。聞こえないはずの聴覚障害者の耳に微かに聞こえる音楽のような……。「音」ですらない、微かな空気の震えのような……。わたしは、あなたは、その空気の震えを感じ取ることができるだろうか?


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小難しい映画ではない。誤解を恐れずに言えば、これは堂々たる「エンタテインメント」であり、堂々たる「アメリカ映画」だ。笑いもある。悪い双子のバーコードハゲ兄弟が並ぶと、おかしい。またそいつらの顔が、ほんとうにわかりやすく悪いのがいい。それにしても、アメリカの映画以外で法廷劇をこんなにもサスペンスフルに、エモーショナルに描いた映画は万田邦敏『接吻』くらいではあるまいか?法廷劇には、おそらく映画の核にかかわる何かがある、と思っている。何かを演じる、もしくは演じ直すから?よくわからない。ジョン・フォードにしばしば登場する法廷。ジョナサン・デミフィラデルフィア』の法廷。アメリカ……


物語の速さ、描写のキレが紛れもない「活劇」として生きている。冒頭の白い霧、度々振るわれる暴力、手話の捉え方、いずれも一級品だ。暴力シーンはもちろんエグいが、決して「メジャー映画」の範疇からははみ出さない品を兼ね備えている。写すものと隠すものの按配が素晴らしく、隠してあっても、それは見えるもの以上に残酷であったりもする。しかしこれだけの暴力シーンを撮れる人であれば、当然数々の暴力シーンを映画で見てきているはずで、そうしたものを「利用」ないし「応用」したいという欲望は持っているはずで、だからわたしやあなただけではなく、映画を撮る者、ひいてはその欲望を喚起する「映画」もまた、無垢ではありえない。スクリーンは無垢だが、そこに投射するための「映画」もまた、罪深いのだ。


冒頭の白い霧が、最後にはどう変化するか。「見られる人」は自分が「見られている」ことに、どのように気づくか。そして何を「見る」のか。「見る」はいかにして「アクション」に転ずるか。その後には何が待っているか。微かな空気の震えは、感じ取れるか。こんなことを言う資格はわたしにはないが、みんなに、なるべく多くの人に、この映画を見てほしい。