祖母のこと

母方の祖母が亡くなったのは、昨年の7月のことだった。


典型的にサラリーマンな中産階級ばかりの親族の中で、この人のユーモアあふれるアティテュードと本好きは、いつも心の拠り所だった。映画の道に進む、とわたしが言い出したときに、”やめておけ”の大合唱の中、「やってみんかね」と言ってくれたのはこの人だけだった。その後、久しぶりに祖母宅に泊まりにいったとき、「蓮実さんの本はなんやようわからんけど、かっこええ文章書く人やがね」と言われて、蓮実読んでる!と驚愕もし嬉しくもなったのだった。


昨年5月に見舞いに行ったのが生きている祖母に会った最後になった。もう先は長くない、とわかっていた時期で、すでに呆けて意味のあることは言わなくなっていたが、わたしのことはなんとなくわかっているようだった。車椅子を押して、病院のまわりを散歩した。祖母は「自衛隊はどうしたんかね」と「塩の塊があるやろ。塩」を繰り返していた。どういう文脈で出てきていたのかは、もう確かめようがない。病院にいるときに電話がかかってきて、はじめて商業映画で仕事をすることになった。祖母が亡くなった日、その映画の撮影で函館にいた。撮休で近郊の自然公園のようなところを、ひとりでぶらぶらしているときに妹から電話があり、祖母が亡くなったことを聞いた。数日抜けても何とかなる立場だったので、プロデューサーの了解を得て、翌日、葬式に向かった。


掃除が嫌いで家の中はいつも乱雑だったが、玄関前の掃除は欠かさない、そんな人だった。よく物を拾ってきた。小さな人形だとか、こまごまとしたものを。それらすべてに名前をつけて、ガムテープで壁に貼り付ける。メモ類もすべてガムテープで壁に貼る。もちろん壁はガムテープの痕だらけになる。そんな家が好きだった。


祖母の夫が亡くなったのはわたしが10歳くらいのときだったから、もうだいぶ昔のこと。はじめての男孫だったので祖父は随分かわいがってくれていたらしいが、よく覚えていないのは残念なことだ。いつもサクマドロップをいつもくれたこと。タバコの匂いがしたこと。仁丹の匂いがしていたこと。祖父の運転する車が、「近道やから」とガソリンスタンドを突っ切って、ひやひやしたこと。そんな断片的な記憶だけがある。後から聞くに、この祖父は、どうも戦争に行って、そこからとち狂ってしまった人だったようだ。テレビで戦争関係のものが映ると、即座にチャンネルを変えた。戦争の話は子どもたちにもしなかった。戦後しばらくはロクに仕事もせず、飲む・打つ・買うで随分と祖母は苦労したらしい。生活が立ちゆかなくなり、子どもたちを知り合いの家に預けざるをえなかった時期もあったらしい。そうした時期のことを、もっと聞いておけばよかった。一度だけ、祖父の何回忌かのときにタクシーで隣に座った祖母が、堰を切ったようにその時期のことを話してくれたことがあった。妊娠した体で、混んで乗れない電車の窓から乗り込んだ、という話もあった。神戸で空襲に怯えた話もあった。魚屋で働いたが、水が冷たくて辛かったこと。本屋に転職することができて、嬉しかったこと。わたしはそのときとても眠くて、夢のようにそんな話を聞いたという記憶しかない。祖母のライフストーリーを直接聞いたのは、そのとき限りだった。もっとちゃんと聞いておけばよかった。改めて話を聞けばよかった。


よく食べる人で、魚がいちばん好きだったが、晩年になっても肉やらうなぎやらをぺろりと平らげていた。晩年、会食の席で酒を飲んでぐったりしたときは周囲が慌てて病院にかつぎこんだが、「うん、ただの飲み過ぎですね」と言われたことがあった。少女のようにお茶目なところを最後までもっている人だった。もっとも、泊まりにいったときに、風呂上がりに郵便配達がきて、垂れたおっぱいをぶらんぶらんさせながら応対に出てったのは、さすがに「ばあちゃん」だったけど。あのときはさすがに「頼むからやめて、ばあちゃん」だった。昔は走るネズミを手で捕獲したりもしていたらしい。女は強い。


祖母が亡くなってから、家の整理をした。昔の写真に写る祖母や祖父。祖父の戦中日記も出てきた。小さな、かっちりした字で細々と書き留められていた。祖母の本棚を整理していて、なぜか春画の全集が出てきたときには、親戚一同、無言になった。何冊か、わたしがもらい受けた。もともとは松山の人で、結婚してからは神戸にずっといた人だが、最後の20年ほどは叔父家族の近く、愛知に住んだ。口には出さなかったけれど、祖母は願うことなら神戸にずっといたかったのだと思う。モダンな港町の似合う人だった。