新たなカメラと2014年に見た映画

新しくカメラを買った。フジのX100というやつで、単焦点・35mm(35mm換算)。なかなか好みの写りをする。



去年、新作は50本あまりしか見られなかった。その中のお気に入り(順不同)。


●ブリングリング(ソフィア・コッポラ
●ドラッグ・ウォー 毒戦(ジョニー・トー
ビフォア・ミッドナイト(リチャード・リンクレーター)
●ジン〜悪魔の起源〜(トビー・フーパー
●神様はつらい(アレクセイ・ゲルマン
●ザ・ホスト 美しき侵略者(アンドリュー・ニコル
●テロ、ライブ(キム・ビョンウ)
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシージェームズ・ガン
ジャージー・ボーイズクリント・イーストウッド
●毛皮のヴィーナス(ロマン・ポランスキー
マップス・トゥ・ザ・スターズ(デヴィッド・クローネンバーグ


こうして並べて見ると、去年の初めに見た『ブリングリング』と最後に見た『マップス・トゥ・ザ・スターズ』は、似た感触の映画だったような。まだうまく言葉にできないのだけど、確実に現実の何かを拾っている気がする。

渓谷

たまにはアウトドア。山梨の西沢渓谷というところ。でも途中で飽きた。


そこかしこに「落石注意!」と書いてあったけど、崖の反対側は急流だったり奈落だったりで、落ちてきたところで逃げ場もなし。何でみんなそんなリスキーなところにわざわざ行くんだろう。こんなところで死にたくはない。


もうちょっと気楽なハイキングコースだと思ってた。体への負担はさほどないけれど、一歩踏み間違えたら奈落に真っ逆さま、な場所もあり。実際に滑落して亡くなっている人もちらほらいるそうな。ここで死んだら無念だろうなあ、とかそんなことを考えながら歩いた。戦前までは木材の切り出しのため、トロッコ軌道が通っていて(今も痕跡がある)、馬が牽いていたらしい。トロッコごと沢に落ちた人もいたんだとか。「沢に落ちて負傷した」と説明の板には書いてあったけど、負傷で済んだかは眉唾だと思う。仕事ならば仕方ないにしても、わざわざ景色を見に、下手したら死ぬところに行く気持ちはさっぱりわからないな。耳にイヤフォン突っ込んでスポーツチャリに乗っている人の気持ちと同じくらい、わからない。







マーヴェリックス


爆音収穫祭にて『マーヴェリックス』(カーティス・ハンソン)。


海辺で遊ぶ健康的な少年と少女が出会うのは、イカした中年サーファー。世界がずっとこんなふうであればいいのに。でも残念ながら、世界はそんなもんじゃない。少年はアル中気味の母親を抱えてピザ屋でバイトする青年(サーフィンはうまい)になっているし、少女はチャラいギャル(年の割に老け顔)になっている。イカしてたはずの中年は孤独を抱え、できた妻がいないとまともに生きていけない(たぶんあんまり働いてない。すぐに職場でキレて辞める)。うまくいかない。でも誰が悪いわけでもない。


この映画にはそんな人たちしか出てはこないし、波に乗ったからといって何が解決するわけでもない。それでも青年は「あの波」に乗ろうとし、中年は青年を不器用に導く。そしてその導きとは、死なないための訓練なのだ。大波が頭上に落ちてきたときに死なないための、頭脳と身体の訓練。体力がなければ死ぬ。肺活量がなければ死ぬ。パニックを起こせば死ぬ。それは両親がいないこと、父がいないことと同じで、変えようのない事実なのだ。


だからこの映画で波は残酷でも優しくもなく、ただ荒れ狂い、重低音を轟かせる。圧倒的に。それは人智を超えたものとしてあり、中途半端に挑めば、容赦なく海の底に引きずられて窒息するか、岩に叩きつけられて砕けるしかない。そうしたものと知りつつ、サーファーたちは波に挑む。怠りなく準備をして。だからベテランはいとも易々と波を乗りこなしている、ように見える。


波のように何度も何度も語られる「家族」「孤独」「青春」を丁寧に語りきるカーティス・ハンソンもまた、この映画をそんなふうに作ったのではないか。体力と頭脳をフルに駆使して。あのビッグウェーブを実際に撮影するのは並大抵のことではなかったろうし、また、脇の人物に至るまで、人を見る視点は限りなく優しい。いまどき「手紙」をキーポイントに持ってくる演出も、さらっとやっているようだけど、あんなことはなかなかできない。おかげでボロボロ泣かされたわけだけど。


誰もが「自分の波」を抱えていて、一人では波の向こう側に行くことができないし、行けるようになったとしても、「Don't go near the water」という人の言葉に耳を傾けることのほうが大事なときもある。深淵を覗き込んでしまっても、別の帰り道を誰かが知っている。「We are not alone」、とある映画に出てきたそんな言葉を思いだした。

消耗品の死ぬ権利


 


エクスペンダブルズ2』(サイモン・ウェスト
終の信託』(周防正行


すっかり映画を見られなくなって、テロップがどうとか、見る人への配慮がとかそんなやりとりばかりを仕事でしていると、『エクスペンダブルズ2』の冒頭、人がガンガン血を噴き出して死んで行くのを見るだけで、ああこれが見たかったんだよ、と爽快に感じてしまう。冒頭シーンから持ってくるベタなオチも笑ったし。という自分に気づいて、人としてまずいんじゃないのこれ、とちらっと思ったりもしましたが。


エクスペンダブルズ2』は全篇そんな映画で、「負け犬」要素が薄くなったぶん、ただのアクション映画になってしまった感も否めないけれど、ザ・アメリカ映画な軽口セリフのやりとりは堪能できた。「クラッシックで行くぜ」て言ってんのに「ガチンコ」と訳したり、「fan」が「男祭り」になってたりするのはどうかと思うけど、そんな些細なことはまあ大したことじゃない。チャック・ノリスがいいところで出てきすぎでも、そんなことはいいじゃない。スタローンが(ほぼ)楽しそうにしてる、「やや単調な、普通のアメリカ映画」になっていて、個人的にはそういうものに飢えていたので、何か満たされたような気分になったのでした。「オマエ、まさかアレやるつもりか?」「ああ、アレいくぞ」なんていう、スタローンとジェイソン・ステイサムのやりとりを横で若い女がポカンと聞いているうちに……なんていう展開を見ているだけで安心するし、「戻ってきすぎだろ」には噴き出した。それにしてもスタローン、地の底から響いてくるような声になっていて、亡霊化が進んでいるような。まだまだこれからが楽しみ。


打って変わって、その翌日に見た『終の信託』。地味で暗い……のだけど、冒頭数カットとか、草刈民代がポツンと佇む待合室の照明の変化の具合とか、クライマックスの鬼気迫る対話シーン(大沢たかお!)を見るだけで凄い映画だとわかるはず。『アウトレイジ ビヨンド』の北野武のような、壮絶なところに周防さんは達してしまっているような。端正さが凄みにまで達してしまっている。


このほとんどが会話で構成された映画を見終えて、「死ぬ権利」の話はそうそう簡単に結論が出るものじゃないことは重々承知しつつ、しかしストレートな気分としては、おれたちには自分の望むように死ぬ権利すらないのか!と思ってしまったのは、これを見たのが休日のシネコンだから。


1800円という、安くはない金を払って映画を見に来た客を、まるで奴隷のようにずらずらと、延々エスカレーターで上の階に向かわせる。エレベーターはたった一基。しかも係員が「エレベーターは奥にあります」とアナウンスしていても、なぜかみなエスカレーターで上に向かう。3Fから11Fまで。こんな状況を見ていたら悲しくなってしまって。何で金払った上でストレスと時間の無駄を与えられにゃいかんのか。インターネットで席の予約ができるのは、確かに客にとって便利な面もあるだろうしサーバーのメンテや何やで費用もかかってるだろうけど、映画館員のする仕事を客が代わりにやってるようなものなのに、なんで鑑賞料金は下がらないのか。


いちばんの疑問は、そりゃアテネフランセみたいな、好き者が好んで来るようなところでなら並ぶのもまあ好きのうち、ということでわかるけど、どうして資本を潤沢に持った東宝やら松竹やらが、客にわざわざ不快を強いるような建物を造って、それを「サービス」とぬけぬけと称しているんだろう。怖いのは、もしかしたら客にとってもそのほうがイベント性が高まって満足度が上がる……なんてことが起こってるかもしれないことで、そんなことはないと信じたいけど、「ラーメン屋に何時間並んだ」とか「何日連続徹夜した」とか、たまに自慢げに言ってる人がいるのを見ると、ちょっと不安になる。いや、もちろん並んでも食べたい気持ち自体にケチをつけるつもりはまったくないし、どうしても終わらなくて徹夜が続くこともあって、それにはもう「おつかれさまでした!」と思うのだけど、その「並んだこと」「徹夜したこと」自体を誇らしげに語る人がたまにいるように、「映画館でこれだけ列に並んで長距離移動をさせられた末に見た」ということが、映画のプレミア感を高めている、なんてことだったらどうしようかと……。


そもそも上映前の「映画泥棒」だって、あれは金払ってわざわざ映画館に映画を見に来てる客に「盗むな」と言ってるわけで、あれって例えば服屋に入った瞬間に、「万引きは犯罪です」とわざわざ言われるのと同じこと。こんな失礼な話はないだろう。下手に指定席制が広まってしまった結果、ミニシアターなんかだと混雑状況もわからずに席を選ばされ、いざ映画が始まったら、2列くらいだけがきちきちに詰められてあとはガラガラ……とか、そんなのも、どうせシステムは入れてんだから、現在状況を表示させるiPadか何か、その程度のものがあれば、状況を見ながら席を選べるようになるはずなのに、それもなし。初めて行った劇場でスクリーンの大きさもわからないまま席を選ばされ、後になって「変えて」というと、「お客様が選ばれた席ですから」と自己責任論をぶたれるわけで、何でそんなことになったのか。


「死ぬ権利」から随分離れてしまったけれど、この映画を見た後、そんな怒りがふつふつと湧いてきたのだった。もちろん、頑張ってて気持ちのいい映画館も沢山あるわけで、死ぬときだって、「シネコン的な病院」で死ぬか「ミニシアター的な病院」で死ぬか、自宅で死ぬか、とあれこれ選ぶ自由はそれなりにあるんだろうけど、「シネコン的な病院」でだけは絶対に死にたくないな。世の中はシネコンとかファミレスの方向にどんどん向かってるけれど、それは「国防軍」なんて言い出す党首が出て来るのと表裏一体だと、おれは信じているから。

※11月25日追記

こんなニュースもつい最近あったようです。
「12年間植物状態だった男性と脳スキャンで対話することに成功 : ギズモード・ジャパン」
http://www.gizmodo.jp/2012/11/12_12.html

カリフォルニア・ドールズ/白夜

 


カリフォルニア・ドールズ』(ロバート・アルドリッチ)、『白夜』(ブレッソン)。


仕事先を変わってまったく映画が見られず、先月後半から今月ここまでにかけて、この2本しか見ていない。


もう言わずもがなのニュープリント2本。フィルム上映が難しくなる前にこれだけは!という配給や上映の方々の熱意が噴出して、この二本の、まさかのニュープリント上映が実現。この二本をフィルムで、劇場で見られる日を迎えて、感無量です。二本とも、映画館で、スクリーンから放たれる、徹底的に醒めていて、かつ熱い心意気を他のお客さんたちと一緒に感じながら見ることは幸せきわまりない体験だった。


カリフォルニア・ドールズ』はスクリーンで見るとこんなにも寒々しくて気高い映画なのかと思ったし、初めて見た『白夜』は素敵に奇妙な、きゅんきゅんしながら笑えるラブストーリーだった。あの変な音楽の使い方。


この二本、フィルムで、スクリーンで見られるのは生きているうちは最後かもしれない。アルドリッチに至っては、『ロバート・オルドリッチ読本 vol.1』(劇場でも販売)、『ロバート・アルドリッチ大全』(もうすぐ発売)の刊行と、ここに来ての大盛り上がり。2018年の生誕100年にはぜひ全作上映が叶うよう、みなさん最後のシアターNに駆けつけてください。この二本を配給してくれた、どちらも小さな配給会社の方々、そして劇場の方々には、心からありがとうと言いたい。

Playback


少し前、三宅唱監督の『Playback』をこっそり試写にもぐらせていただいて、見た。


風格あるなあ、と思う。まだ28歳の監督が、どうしてこんなに堂々とした、それでいて繊細きわまりない映画を撮っているんだろうか。前作『やくたたず』も役者の佇まいが素晴らしい映画だった。今回はそれに輪をかけて、実力派の役者たちの佇まいが、「この人はこの人である」というたしかな輪郭をもって迫ってくる。その堂々たる存在のしかたは、とても若い監督が演出したとは思えない。巨匠がさらっと撮ってしまったような、そんな格調があった。


ムラジュンが演じる、中年に差し掛かってはいるけれどぱっとしない役者が、友人の結婚式に出るために故郷へ帰る道すがら、高校生にタイムスリップしてグラウンドを駆け回ったり、かつての仲間たちとうだうだ喋ってみたり、大人ながらにスケボーに乗っかって滑走してみたり。そのような「あわい」の時間が、『やくたたず』と同じことはするまいという意志をもって、徹底してアメリカ映画的なカット構成で綴られていく。つかの間の、宙ぶらりんになった時間はもちろん終わるに決まっているのだが、その果てに見事きわまりない1カットがあって、まさかこの映画で泣けるかもしれない、とか、ここからどうするんだろうかと思っていたら、まさかの「プレイバックpart2」が始まる……。このあたり、書いていてもさっぱり伝わらないだろうと思うので、どういうことなのかはぜひ映画館で確認してみてください。こんなに堂々とアメリカ映画をやっておきながらそれやるのね、とその生意気さににやにやしながら見てしまった。坊や、いったい何を教わってきたの、と山口百恵でなくとも言いたくなる映画のはず。


最近とみに色気のあるムラジュンの、この映画での地に足が着いていないようなひょこひょことした佇まいも魅力的だけど、横たわったり、何かに凭れたりするときのムラジュン、これがとくに素晴らしい。車のシートでぐったりと眠りこんだり、結婚式場のソファーに深々と凭れていたり、地面にごろんと転がってしまったり。そんなムラジュンが、すっくと背を伸ばす瞬間は果たして訪れるのか、否か。これはそうした映画だったりもする。無意識のコメディアンに徹した渋川清彦(KEE、という名前のほうが馴染み深いのですが、SMART読んでた身としては)の飄々とした佇まいもいいし、出番は少ないけれど、渡辺真起子の、さばさばとした佇まいもいい。学校の先生役の女性も同じタイプなので、監督はさっぱりした女性が好みなのね、きっと。そんな役者陣の魅力を確実に捉えた四宮秀俊の撮影も、とてもよかった。いい光だった。


やくたたず』は「場所」に根ざした「仲間」の群像だったけれど、今回は「仲間」を大きくフィーチャーしつつ、「時間」そして「個」のほうにも踏み出して……とか言ってもこの監督はそういうことはすべてあらかじめ考えた上でやっているだろうし、もうここまで撮れるんだから、次は他人と書いた脚本でも、と思ったらインタビューで「今後はそうなるだろうから、今回は自分ひとりで書いた」ということを言ってるし、そのクレバーさには脱帽するしかないのだけれど、これからの(ある種の)日本映画を背負って立つ監督であるのは間違いない。初の「商業映画」でこんなことをやる生意気さも、確信犯でないとできない。蛇足だけど、濱口竜介監督のシナリオで三宅監督が撮ってみたりすると、変な化学反応が起きたりするんじゃないか、とふと思ったりした。


この『Playback』、11月10日から、オーディトリウム渋谷でロードショーだそう。今回は入魂の35mmプリント(HD撮影からのキネコ)ということで、ぜひ劇場で、周りのお客さんと、モノクロフィルムの質感を堪能してほしいと思います。公式ホームページはこちら