ライク・サムワン・イン・ラブ


ライク・サムワン・イン・ラブアッバス・キアロスタミ)。


妖術としか思えない。キアさん、日本語なんてまったくわかんないだろうに、なんでこんな微妙な距離感の映画が撮れるのか。


ただ、日本語なんて〜、と書いたけれど、実は言葉よりもキャラクターを微細なしぐさによって「ああ、こういう人」と納得させる技量がむちゃくちゃ秀れてるんだなあと、何気ないしぐさや語調の演出を見ていて思う。ややわかりやすすぎる演出も入れてきつつ、細かい積み重ねがほんとうに上手くて、例えば予告篇にも入っている、爺さんと若い女の車中のシーンでの、助手席でごそごそとタイツを穿くにいたるまでの若い女のしぐさを見ているだけで、この女性の「在りかた」がすうっと立ち上がってきてしまう。あどけなさ、ルーズさ、邪気のなさ、色気……とか、言葉にすると陳腐になるが、そうしたものが同時に、一気に、見る者にわかってしまう。これは監督の「腕」以外の何物でもない。怖ろしいのは、「しぐさ」を完璧にやりつつ、ここで敬語からタメ口へ、という「言葉」の演出も同時にこなしてしまっていることで、このあたり、キアさんが自分でわかるわけはないから、役者やスタッフをきっちり巻き込んでいるんだろうなあ。そこまで含め、この人の演出は、すでに魔術。


そんな魔術にいちばん楽しそうに乗っかって演技をしている加瀬亮という役者がまた凄いんだけど、そこは劇場でぜひにやにや笑いながら見てください。額に皺の寄りまくった加瀬亮が、可笑しくてしかたなかった。あんな絶妙の「あ、右、気をつけてくださいね!」を言える役者はそうそういない。音と撮影もまあほんとうに高いレベルになっていて、音はその狙いが透けて「やってんなあ」と思わないでもなかったけれど、北野武監督とのコンビで有名な柳島克己キャメラマンによる撮影の、とりわけ繊細なライティングは見事で、たいへん失礼ながら、この人はこんなこともできる人だったのかと驚いた。


「しぐさ」の演出ができるということはアクションが撮れるということで、だからこそ最後のカットの、あの活劇がある。まああれに笑うか怒るかは人それぞれで、一緒に見に行った人はぷんぷん怒っていましたが、そういうのを見てほくそ笑むような監督だからタチが悪い。ほんとにまあ、こんなことされたら困ってしまうしかないわけで、ぜったい友達になりたくない監督No.1はこの人に決定。まんまと化かされてみたい方、オレは化かされんぞ!という方々、覚悟を固めて見に行ってみてください。なんとなく見るとヤケドします、たぶん。

生き返らせること


ちょっと前に某映画監督が『ドミノ』や『デジャヴ』でトニー・スコットがしようとしていたのは「死者を生き返らせること」だと呟いていた。こちらも同じくらいの時期にやっぱりその二作を見ていて、作品に、そして作品を受けたその言葉に、じんとくるものがあった。


映画は生きられた時間をその姿のまま殺して冷凍保存する。冷凍保存された死体を動かすことで、動いている時間だけ、あたかも生きた時間が生き返ったかのように、見える。見ている間、見ている者にとって、それは「あたかも、生きている」。ゾンビが最初は「あたかも、生きている」ように見えるように。


『ドミノ』で死ぬシーンが描かれるドミノと仲間たち、金持ちのボンボンとろくでなしたちは、「あたかも、死んでいる」ように描かれるが、結局「あたかも、生きている」ように生き続けている。それらは同じコインの裏表にすぎない。『デジャヴ』で「あたかも、救われた」かのように見えた世界は、時間の流れとともに支流となり、消滅していくかもしれない。


「『アンストッパブル』は古典的」と言う人がいてどうにも解せない思いになるのは、電車が橋を渡ってしまっていること、その後は「別の男」が突如現れて止める、ということがあるからだ。「橋にかかる前に電車を止めねばならない」とみなが思っていたところに、「止めずにあっち行くしかないか!」という選択肢が突如現れ、「あっちに行ってしまった」電車を止めるすべはなくなる。それを、ひょっこりと現れた男が活躍してあっさりと止める。古典映画としてはここは余計だろう。死の列車は二人を乗せたまま、「あっち」に行ってしまうのだ。


トニー・スコットの映画では誰も正真正銘のヒーローになれない。できるのは、せいぜい照明塔の上でジグを踊って笑われるくらいだ。その意味で "Too Late The Hero"(アルドリッチ『燃える戦場』の原題)の精神をトニー・スコットは受け継いでいた。「あたかも、生きている」だけかもしれないが、それでもなお、死者を生き返らせようとし、そのために「あっち」に行ってしまう、そんな人々をつくり出した。そんなことを、今になって思う。

トニスコ


あんな『アンストッパブル』を撮った人がそんなことになるなんて、なんでや。


わからない。ニュースを見た途端に凍りつき、悲しいやら追悼やらの気分にはなれずに、ただ麻痺したように空洞がある。橋から「迷いなく飛んだ」と報道されている。その「迷いなく」がいかにもトニスコだとも思えて、なおさらどうしていいのかわからない。


今はただ、偏愛している『ドミノ』の、元ビバヒルと、おばちゃんたちと、アフガンに舞うドル紙幣を見ようと思う。

追記

まったく覚えていなかったが、『ドミノ』のラスト、「あらゆる物語の結末はただ一つ」と前置きした上で、"We all fall down." というセリフで締められていた……

ビーチボーイズ


基本的には座って、時折手を振り踊りながら、すこし不安定な声で歌うブライアン。陽気に煽るマイク・ラブ。映像で映し出されるデニスとカール。そんなすべてを包み込んで、強靱なポップスが現れ、きらめきながら夏の夜空に消えてゆく。夢のように、それらは過ぎ去っていった。"Don't Worry Baby" ……大丈夫、きっとうまくいく。そんなことをあの人たちに言われたら、それは泣く。


70歳前後とは信じられない声と、ブライアンとマイク・ラブが同じステージに立っている幸せと、そんなあれやこれやがすべて音になって、輝いて……。そこに妥協はなかった。あれやこれやの歴史のある曲をあれこれ取り混ぜ、そのままやっていた。煌めく音の上でたっぷりサーフさせられて、これでこの夏、思い残すことはない。意味やら歴史やらを越えて、ただ立ち上がってくる音に身をまかせていたら、いつの間にか終わっていた。ポップスは人の作る魔法なんだということが、よくわかった。

カール・マイ



アテネ・フランセのハンス・ユルゲン・ジーバーベルク特集にて、『カール・マイ』。


ベストセラー冒険小説家であるホラ吹きのおっちゃんが、「あんた昔はエロ小説書いてたやろ」とか「オマエ博士号持ってるいうけど偽装やん」とか「世界中冒険旅行した言うて、ドイツから出たことないやん」とか言われて(全部正しくはあるんだが)次々に訴訟を起こされ、のうのうとしてるんだか、苦悩してるんだか……というお話。「いやしんどいねんワシ」という感じでありつつ、とつぜん秘書と結婚して「ワレ出てけや」と妻を追い出してしまったりする、食えないおっさんの一代記。昔の所行は謎だし、ホラ吹き。だが話はおもしろいし、盛り上がる。ときに感動的だったりする……ついつい関西弁で記してしまったが、このおっさんには関西のニオイがする。


関西とは何の関係もないジーバーベルクを見るのは、先日『ヒトラー、またはドイツ映画』(ヒトラーはドイツが生んだ映画の一つである、というような意味らしい)の第1・2部を見て以来の2度目だが、予想以上にポップで驚く。といってもシーンとシーンの繋がり方がよくわからず、なのだが全体として、「おっちゃんの人生」にちゃんとなっていて楽しめる、という、奇妙な映画。セリフとして手紙の朗読を多用していたりとしっかりブレヒトしているのだが、3時間の長尺に飽きることもなく、普通の意味で楽しめる。前半はいろいろな人や情報が次々と出てくる、法廷サスペンス。後半はそんなあれやこれやに疲れたおっちゃんの孤独がメイン、とこのあたりもわかりやすく。人間関係もそれなりに追えるし、『ヒトラー〜』でたぶん全開のもろジーバーベルク節、といった感じでもなく(剥製とミニチュアが好きなのはよくわかったが)、でもどこかおかしい。


映画とはそもそもフェイクであり詐欺であり、いかがわしいものであり、だからこの、大衆を熱狂させるホラ吹きのおっちゃんのも持ついかがわしさは……というような話は多分どこかで誰かが立派に書いてくれるだろうから、いや165分かけて『ダークナイトライジング』見るより182分の『カール・マイ』を見るほうが普通の意味でもよっぽど面白いですよ(ただし設備上、尻は痛くなるけれど)、とだけ記しておくことにする。

プロメテウス


  


公開日は8.24のはずなんですが、いつから映画の公開日ってこんなになし崩しになったんですか?というわけで14日は千円のTOHO系にて『プロメテウス』(リドリー・スコット)。3Dメガネ持参で1300円。


もう単純な意味でめちゃくちゃ面白かったんですけど、言ってしまうとアレなので、2点だけ。


1.
決してヒューマンSF大作じゃないから、予告篇に釣られてデートとかで行かないように。


2.
シャリーズ・セロン姐さんが完璧。半裸で水したたらせながら腹筋してる姐さん。ぴっちりスーツで火焔……いや、言うまい。どれも完璧。ダイエットして頑張ってぴっちりを着た『ダークナイトライジング』のアン・ハサウェイがただの小娘でしかなかったことを、あなたは嫌というほど思い知ることになる(小娘としてアン・ハサウェイはいいと思います)。


とにかく、めっちゃ笑えました。何を見てもセックス中毒にしか見えないマイケル・ファスベンダーも期待通りの活躍。リドリー・スコット、やってくれたね。

same place / same sin


  



「same placeをoccupyすることはできぬ」と漱石は書きつけた。この空間にいる「わたし」は「この空間」を誰かと分けあうことはできない。わたしの身体が占めているスペースに、他人の身体が入ることはできない。私たちは、生まれた瞬間から、常に「ほか」を押しのけて生きている。


※  ※  ※


「見られる人」から「見る人」へ、そして「アクションする人」へ。そして……。これが『トガニ 幼き瞳の告発』(ファン・ドンヒョク)の物語だ。罪は以前からそこにあった。ただ知らなかったか、知らない振りをしていただけだった。最初から、「わたし」は罪を負っていたのだ。わたしはその当事者だった。傍観者だと思っていた。しかし、当事者だったのだ、はじめから。当事者でありながら、傍観者だと思っていた。もしくは傍観者のふりをしていた。当事者でありつつ、同時に傍観者であること。


(話題は逸れるが、おそらく今起こっている「脱原発」の運動の根底には、この罪の意識が流れているはずだ。単に「怒り」だけではないはずだ。われわれみんな、原発の電気を使ってきてしまった。原発によって、かろうじて生きながらきたような地域もある。原発に対して、この国の人は決して無垢ではありえない。もちろん、積極的に、罪の意識もなく、あるいは罪とはっきり認識したうえで原発を推進してきた者は断罪されるべきだが、「脱原発」の運動の参加者にも多かれ少なかれ罪はあり、かつそれが程度の差はあるだろうが、自覚されている。そこがこれまでの社会運動とは決定的に異なるのではないか。)


主演の新任美術教師を演じるコン・ユの「見る」芝居。唖然とし、半笑いになり、眺め、目を背け、目を見開き、そしてその先へ……。見ること。聴覚障害の子どもたちが他人の声を聞こうとするとき、それは「見る」ことを通じてしか行えない。伝えようとするとき、「身振り」を通じてしか行えない。手話は体系を持った言語であり、同時に身振りでもあることを、この映画を見てまざまざと実感した。法廷という、言語がすべてを統べる空間で、手話がいかにして闘うか。ある瞬間、それは手話が言語であると同時に、身振りでもある瞬間。その瞬間が、如実にキャメラで捉えられて息を呑む。


実話に基づいているというこの映画には、中途半端な救いはない。見てしまった絶望の先に何があるのか……。それは微かな、微かなものなのだ、おそらく。「希望」とも名指すことのできないような、ほとんど絶望、のような、微かなもの……。聞こえないはずの聴覚障害者の耳に微かに聞こえる音楽のような……。「音」ですらない、微かな空気の震えのような……。わたしは、あなたは、その空気の震えを感じ取ることができるだろうか?


※  ※  ※


小難しい映画ではない。誤解を恐れずに言えば、これは堂々たる「エンタテインメント」であり、堂々たる「アメリカ映画」だ。笑いもある。悪い双子のバーコードハゲ兄弟が並ぶと、おかしい。またそいつらの顔が、ほんとうにわかりやすく悪いのがいい。それにしても、アメリカの映画以外で法廷劇をこんなにもサスペンスフルに、エモーショナルに描いた映画は万田邦敏『接吻』くらいではあるまいか?法廷劇には、おそらく映画の核にかかわる何かがある、と思っている。何かを演じる、もしくは演じ直すから?よくわからない。ジョン・フォードにしばしば登場する法廷。ジョナサン・デミフィラデルフィア』の法廷。アメリカ……


物語の速さ、描写のキレが紛れもない「活劇」として生きている。冒頭の白い霧、度々振るわれる暴力、手話の捉え方、いずれも一級品だ。暴力シーンはもちろんエグいが、決して「メジャー映画」の範疇からははみ出さない品を兼ね備えている。写すものと隠すものの按配が素晴らしく、隠してあっても、それは見えるもの以上に残酷であったりもする。しかしこれだけの暴力シーンを撮れる人であれば、当然数々の暴力シーンを映画で見てきているはずで、そうしたものを「利用」ないし「応用」したいという欲望は持っているはずで、だからわたしやあなただけではなく、映画を撮る者、ひいてはその欲望を喚起する「映画」もまた、無垢ではありえない。スクリーンは無垢だが、そこに投射するための「映画」もまた、罪深いのだ。


冒頭の白い霧が、最後にはどう変化するか。「見られる人」は自分が「見られている」ことに、どのように気づくか。そして何を「見る」のか。「見る」はいかにして「アクション」に転ずるか。その後には何が待っているか。微かな空気の震えは、感じ取れるか。こんなことを言う資格はわたしにはないが、みんなに、なるべく多くの人に、この映画を見てほしい。