Playback


少し前、三宅唱監督の『Playback』をこっそり試写にもぐらせていただいて、見た。


風格あるなあ、と思う。まだ28歳の監督が、どうしてこんなに堂々とした、それでいて繊細きわまりない映画を撮っているんだろうか。前作『やくたたず』も役者の佇まいが素晴らしい映画だった。今回はそれに輪をかけて、実力派の役者たちの佇まいが、「この人はこの人である」というたしかな輪郭をもって迫ってくる。その堂々たる存在のしかたは、とても若い監督が演出したとは思えない。巨匠がさらっと撮ってしまったような、そんな格調があった。


ムラジュンが演じる、中年に差し掛かってはいるけれどぱっとしない役者が、友人の結婚式に出るために故郷へ帰る道すがら、高校生にタイムスリップしてグラウンドを駆け回ったり、かつての仲間たちとうだうだ喋ってみたり、大人ながらにスケボーに乗っかって滑走してみたり。そのような「あわい」の時間が、『やくたたず』と同じことはするまいという意志をもって、徹底してアメリカ映画的なカット構成で綴られていく。つかの間の、宙ぶらりんになった時間はもちろん終わるに決まっているのだが、その果てに見事きわまりない1カットがあって、まさかこの映画で泣けるかもしれない、とか、ここからどうするんだろうかと思っていたら、まさかの「プレイバックpart2」が始まる……。このあたり、書いていてもさっぱり伝わらないだろうと思うので、どういうことなのかはぜひ映画館で確認してみてください。こんなに堂々とアメリカ映画をやっておきながらそれやるのね、とその生意気さににやにやしながら見てしまった。坊や、いったい何を教わってきたの、と山口百恵でなくとも言いたくなる映画のはず。


最近とみに色気のあるムラジュンの、この映画での地に足が着いていないようなひょこひょことした佇まいも魅力的だけど、横たわったり、何かに凭れたりするときのムラジュン、これがとくに素晴らしい。車のシートでぐったりと眠りこんだり、結婚式場のソファーに深々と凭れていたり、地面にごろんと転がってしまったり。そんなムラジュンが、すっくと背を伸ばす瞬間は果たして訪れるのか、否か。これはそうした映画だったりもする。無意識のコメディアンに徹した渋川清彦(KEE、という名前のほうが馴染み深いのですが、SMART読んでた身としては)の飄々とした佇まいもいいし、出番は少ないけれど、渡辺真起子の、さばさばとした佇まいもいい。学校の先生役の女性も同じタイプなので、監督はさっぱりした女性が好みなのね、きっと。そんな役者陣の魅力を確実に捉えた四宮秀俊の撮影も、とてもよかった。いい光だった。


やくたたず』は「場所」に根ざした「仲間」の群像だったけれど、今回は「仲間」を大きくフィーチャーしつつ、「時間」そして「個」のほうにも踏み出して……とか言ってもこの監督はそういうことはすべてあらかじめ考えた上でやっているだろうし、もうここまで撮れるんだから、次は他人と書いた脚本でも、と思ったらインタビューで「今後はそうなるだろうから、今回は自分ひとりで書いた」ということを言ってるし、そのクレバーさには脱帽するしかないのだけれど、これからの(ある種の)日本映画を背負って立つ監督であるのは間違いない。初の「商業映画」でこんなことをやる生意気さも、確信犯でないとできない。蛇足だけど、濱口竜介監督のシナリオで三宅監督が撮ってみたりすると、変な化学反応が起きたりするんじゃないか、とふと思ったりした。


この『Playback』、11月10日から、オーディトリウム渋谷でロードショーだそう。今回は入魂の35mmプリント(HD撮影からのキネコ)ということで、ぜひ劇場で、周りのお客さんと、モノクロフィルムの質感を堪能してほしいと思います。公式ホームページはこちら