テトロ


モンテイロ祭で陰毛!陰毛!もひとつ陰毛!と叫んだりと、珍しく映画を見まくっています。秋です。


遅ればせながら、ラテンビート映画祭にて上映された、フランシス・F・コッポラ『テトロ』について。


わたしがいきなりつかまれたのは、ギャロのもとに訪ねてきた弟がソファに横たわって眠る寄りのカットで、このカットのまさに古典ハリウッドな照明に、開始5分にして泣きかけた。そして引き画に戻るとこの光線はあとかたもなく消えているという、自主映画ノリ。きちんと調べていないが、おそらくこの映画、コッポラワイナリーの儲けで撮った自主製作と思います。自主ならではの自由さと不自由さが理想的な形で同居した、素晴らしい作品。見られる機会があれば、ぜひご覧になってください。最後には、微かな光が見えて静かにぐっときます。


光の話から始めたが、この映画のギャロは強い光を見ると過去を思い出す。「光」はこの映画においてまさに映画そのものであり、そしてそれは「偉大な父」の記憶に繋がっている。もうこの点からして、コッポラはこれ以上ないほどストレートに、自分の話、シネフィルの話を語っていて、しかもこの映画が描くのは、父の負の遺産を背負った世代であり、なおかつその世代を、弱い光で、HDモノクロで描く、という手法をとっている。フィルム化はされているけれども、「HDぽさ」は(おそらく意図的に、だと思うが)残っている。そして同じくHDではあっても、過去だけがカラーで描かれる。


デジタルのモノクロ撮影は99%はその意味が美的でしかなくて鬱陶しいものだが(わたしにはコスタ『何も変えてはならない』のモノクロも逃げに思えた)、この映画のデジタル・モノクロには意味がある。モノクロについては、過去に比べて希薄な現在、という意味、そしてもちろん「喪」の意味が。このあたりでゴダール『愛の世紀』や青山真治『EUREKA』と『テトロ』は共振する。そしてHDについては、「強い光」を望んでも仕方ない。「弱い光」こそを描くのだ、という決意がある。HDはフィルムのように強い光を当てずとも、撮影することができる。だからそれはより親密な場をつくることができる。そうした可能性はあまり試されてはいないように思えるが、この映画がHDで撮られていることの意味はそこにある、とわたしには思える。弱い光のメディア。そこにこそコッポラは賭けた。その果てに、最後のセリフがある。出会ったもの同士で、なんとかするしかない。


強い光を浴びてしまった。それはすでに私に焼き付いてしまった。だが、私自身もまた、弱いながらも光を放ち、それを誰かが受け止めてくれることを望んでいる。まわりの誰かも、きっと同じことを望んでいる。そうした者たちの弱い光を写し取るこの映画は、人物を「キャラクター」として突き放すアメリカ映画的な操作を完璧に行っていながら、これ以上ないほどにやさしい映画だった。未公開の映画なので具体的なことは書かないけれど、繰り返しながら、これはぜひ見てほしい映画。一般公開、強く希望します。