風が吹き、なにかが始まる


『東京公園』(青山真治)。


大震災・原発事故以来、すべてが嘘っぽい。いやもともと嘘だったことが一気に噴出してきている、と言われるとそのとおりなのだが、普通に考えたらすべて止めるのが将来的に妥当だとしか思えない原発はまだ止まらないし、管降ろしだ大連立だと、いけしゃあしゃあと欺瞞がまかりとおり、それがそのまま報道される。何だったんだこの世界は、とよくわからなくなる。こんなに嘘くさいことが本気で行われているなんて、狂っているとしか思えない。だが不謹慎かもしれないが、この混乱の中から何かおもしろいものが生まれるのではないかと、そんな気も少しあったりするのだ。


そんな中、フィクションの力とは何か、とときどき考える。原発やデモのことばかり書いていて、映画のことを書くのはとても久しぶり。


フィクションの力、その答えの一つがこの映画にはあるだろう。母に似た女。血の繋がらない姉。親友の彼女。いかにもメロドラマな要素で組み上げられた脚本は、セリフも含めてとても嘘っぽいのだが、東京にある公園で、晩秋のうららかな光を浴びて井川遥が赤い乳母車を押して歩き、その姿を三浦春馬がこっそりとカメラで狙うとき、フィクションが現実の東京の風を受けて拡がってゆくのをわたしたちは感じる。監督・内田雅章氏・合田典彦によって練りこまれたシナリオが高いフィクション性をキープし、その中で行われる演出は、この監督のこれまでのどの映画よりも力強く、フレームの外へと拡がりだしてゆく。本作のキャメラが優しく役者に寄り添い、じっと見つめるのは、本作で初めて監督とコンビを組んだ、月永雄太氏の優しく粘り強い視線でもあるのかもしれない。


あのどうしようもなく悲痛なシーンを、忘れることはないだろう。その前に風が吹いたことを、小西真奈美が化粧を直して髪を上げて階段を降りてきたときの顔を、もう一度髪を下ろす瞬間を。本作の小西真奈美はとにかく素晴らしい。『LOFT』、『行きずりの街』、本作と、最近見るたびによくなってきている。声の艶もどんどん増してきているように思う。(個人的に、これからは「こにたん」改め「こにさま」と呼ばせていただくことにします。以上、独り言。)


風が吹きわたる。やわらかな日射しが降りそそぐ。小西真奈美が、榮倉奈々が、決定的な一歩を踏み出し、井川遥は凜として待つ。そうやって、終わるものがあり始まるものがある。なんだかそういうことなんじゃないかと、うまく言えないけれど思う。それだけのことなんじゃないだろうか、と。たぶん、踏み出す勇気だけなのだろう。まあ現実には、高橋洋(ホラーの人ではない)演じる歯医者のように、ぎゃーぎゃー喚いたり騒いだり、醜い姿を晒しまくったりするわけで、春馬くんみたいにキラキラすることなんて、これまでもこれからも一生ないのですが、できる限り凜としていきたい。


女性たちの佇まいが美しいこの映画、ぜひ一人でも多くの人が、愛する誰かと見てくれたらいいと思います。わたしは一人で見ましたが、今までの青山映画の中でいちばん好きな映画です。