『夏の黄昏』カーソン・マッカラーズ

カーソン・マッカラーズ『夏の黄昏』を読んだ。加島祥造訳。村上春樹訳『結婚式のメンバー』と元は同じもので、原題は The Member of the Wedding

これは完全に好みレベルの話だけど、おれは『夏の黄昏』のほうがよかった。後半に黒人の家政婦ベレニスのぐっとくるセリフがあったのだけど、以前、読んだときには特に印象に残らなかったな……と思って読み比べてみると、こんな感じ。

加島祥造バージョンだと、こう。

(F・ジャスミン)「そうね……。時々、あたしも何かをぶち壊したくなるもの。町じゅうをめちゃくちゃにしたいと思うこともあるわ」
「あんたはそう言うけどね」とベレニスは言った。「そんなこと、何にもなりゃしないのよ。あたしたちけっきょくはみんな、何かに捕まってる。大きく自由になろうとして、何だかんだとやってみるけどやっぱりだめなのさ。例えばあたしとルーディみたいに。あたしはルーディと一緒にいた時は、何かにとっ捕まってるなんて思わなかった。ところがルーディは死んじまった。あたしたちがああでもない、こうでもないってやってみても、結局は何かにとっ捕まってるってことさ」

「大きく自由になろうとして、何だかんだとやってみるけどやっぱりだめ」な、「何かにとっ捕まった」人たち。マッカラーズの人物たちの本質が見事に浮き彫りになっている。ちなみにルーディーはベレニスの最初の夫。この夫といる間、ベレニスは幸せだった。その後、ベレニスはルーディーの面影を求めて何人かの男と結婚し、いずれも不幸な結婚になる。

これが村上春樹バージョンだと、こうなる。

「そうね」とF・ジャスミンは言った。「ときどきわたしも何かを壊したくなってしまう。この街全体をぶち壊してしまえればいいのにと思うこともある」
「前にもそれを聞いたよ」とベレニスは言った。「しかしそんなことをしたって、何の役にも立ちやしないよ。問題はあたしたちがみんな閉じ込められているってことなんだ。そしてあたしたちはみんな、なんとかしてもっと広いところに自由に逃げ出そうと試みている。たとえばあたしとルーディーはそれを試みたよ。ルーディーと一緒にいるときには、あたしは自分が閉じ込められているとはあまり思わなかった。でもルーディーは死んでしまった。あたしたちはいろんなことを次々に試してみるんだけど、結局は閉じ込められたままなのさ」

確かに意味は同じなんだろうけど、おれにとっては、加島祥造訳のほうが、すっと入ってきたし、ああこれがマッカラーズだよな、と深く感動もしたのだった。暗い暗い世界観だけど。でも、『夏の黄昏』は、マッカラーズの中では明るいほうで、スモールタウンの青春ものとして、誰にでも覚えのある普遍的な物語として読めるものにはなっているので、マッカラーズをこれから読み始める人にはおすすめ。他のマッカラーズ諸作を読んでからこれを読むと、ああでも結局はこの主人公の行く末も……と思ってしまわなくもないけれど、でも本人がまだ世界の残酷さに気づいていないのが、この作品の救いではある。

加島祥造訳と村上春樹訳の違いについては、つい最近、ここを読んでなるほどね、と思って、村上春樹訳で読んでたけど加島祥造訳で読んでみるか、と思うきっかけになったので下記、参考にリンクしておきます。

qfwfq.hatenablog.com

『わたしたちが光の速さで進めないなら』キム・チョヨプ

著者は1993年生まれ。『はちどり』キム・ボラ監督の次回作の原作も入ったSF短篇集。ほとんどの話でフォーカスが当たる人物は女性で、家族の話、孤独についての話、愛についての話、などが語られる。センチメンタルだけどそれぞれの物語の核にしっかりSF的な発想があって、見事に落としてくる。ゼメキス『コンタクト』や、センチメンタルサイドに振ったときのジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなんかを思い出す。素晴らしかった。

著者によるあとがきの一節が印象的だったので転記しておく。

いつの日かわたしたちは、今とは異なる姿、異なる世界で生きることになるだろう。だがそれほど遠い未来にも、誰かは寂しく、孤独で、その手が誰かに届くことを渇望するだろう。どこでどの時代を生きようとも、お互いを理解しようとすることを諦めたくない。今後も小説を書きながら、その理解の断片を、ぶつかりあう存在たちが共に生きてゆく物語を見つけたいと思う。

青くて、強い。無駄がない。この人は書ける人だと思う。この小説集、人口が日本の約半分の韓国で17万部も売れたらしい。今後が楽しみな作家。


わたしたちが光の速さで進めないなら

わたしたちが光の速さで進めないなら

カーソン・マッカラーズ

『心は孤独な狩人』(村上春樹 訳)でハマった。同じく村上春樹訳の『結婚式のメンバー』は読んでいて、いい小説だなと思ったけれど、感動まではしなかった。今回、マッカラーズをいくつか読んでみて、『結婚式のメンバー』はマッカラーズの作品中で例外的に明るいものなのだなと思った。他の作品は暗すぎて、若い人に薦めたりする気はまったくしない。『狩人』の後、『悲しき酒場の唄』『針のない時計』と読み、『黄金の眼に映るもの』を読みかけている。『結婚式のメンバー』の古い訳(加島祥造 訳)も、間違えて買ってしまったので(『夏の黄昏』というタイトルになっている)、読もうと思う。

カーソン・マッカラーズの小説は暗い。愛は成就しない。願いは叶わない。思いは伝わらない。連帯は成立しない。悲劇は止められない。人は呆気なく死ぬ。傷ついた関係は、二度と元に戻らない。溢れんばかりの思いを心のうちに抱えた人と人との生がつかの間、交わるが、噛み合うことはなく、すれ違うか、ぶつかり合うかするばかり。それぞれが死ぬか、諦めるか、次の町に移動するか、生活の中に埋もれて薄まっていくかして、それぞれの孤独の中に帰っていく。心の中に嵐を抱えたまま。全員、生きづらそうだし幸せになる匂いがまったくしない。読んでいて、ふっと引っ張られるので、鬱っぽいときには読まないほうがいい。

『心は孤独な狩人』で、4人がそれぞれ1人の唖に心の内を好き勝手にぶちまけるが、唖はそれぞれの言うことをあまりわかってはいないし、唖が愛しているのはまったく別の人間で、これも不幸な愛情だ。4人が一堂に会したとき、4人はお互いに黙ってしまう。似たような人間たちなのに、というか、似たような人間だから、互いにコミュニケートできない。『悲しき酒場の唄』では完全にすれ違う3角関係が、ほとんど戯画のような形で描かれる。クライマックスシーンは『静かなる男』や『ドノバン珊瑚礁』のジョン・フォードのようだけど、終わった後には虚しさしか残らない。

『針のない時計』もまた、暗くて救いのない小説で、主要な視点人物の2人、重病の薬剤師と耄碌した判事は明らかな差別主義者で、読むのがつらい。ユダヤ人差別、黒人差別。悲劇の臭いしかしない中、案の定、それは起こるのだが、この小説はその後に急展開を見せる。視点人物が飛行機で空に舞い上がるのだが、急に話者が飛行機を追い越して、地球を俯瞰するところにまで上昇する。書いているマッカラーズが視点人物を追い越して前に出てきてしまっている。破綻しているのだけど、この破綻はすごい。ジム・トンプスン読者はジム・トンプスンを思い浮かべてもらうといいかもしれない。視点は上昇し、世界は平和になるのだが、そこから一気に急降下して、汚穢に満ちたこの世界に戻ってくる。自らの意思で。ここの展開はほんとうにすごいので、ぜひそこまでの暗さに耐えて、読んでみていただきたい。想像だけど、マッカラーズは死のうとしたことがおそらく幾度かあるのではないかと思う。死のうとして、戻ってきた人の文章だと思った。いきなりすぎて、ただ呆然とした。地上に戻ってきた後は語りも視点人物レベルに落ち着き、もう一波乱あった後、小説は幕を閉じる。この一波乱がまたすごいのだけど、ここはネタバレになるともったいないので書かない。

カーソン・マッカラーズの小説で、人は幸せにはならないが、小説の中で、人が幸せな瞬間や、結果的に間違っているかもしれないが、幸せだと感じられる瞬間は、確かにある。たとえば、『心は孤独な狩人』で、唖だけが自分の話を理解してくれている、私は理解されている、受け入れられている、と感じられる時間など。実は理解されていないが、理解されているという実感だけは、確かにある。『針のない時計』で、最低の人種差別主義者は、死んだ息子を思って涙する。でも、実際は、息子と父の関係は最悪だった。マッカラーズの小説に出てくる人たちは、小説が終わった後、それぞれの混沌とした内面を持て余しながら、せめて幸せだと感じられた時間の、自分は受け入れられているのではないかと思えた美しい時間の記憶を大事に抱えて生きていっているのではないかと思う。たとえその美しさが完全に勘違いであったとしても、それを否定する権利は誰にもない。

認知症をめぐって

認知症についての番組をディレクションしました。
NHK Eテレで9月19日(土)14:00〜14:59に放送されます。
(※番組名と固有名詞は大人の事情で書きません……ごめんなさい!)
これ、なかなか興味深いものになったと思います。普段あまり自分からこういうことは言わないのですが。


今回、認知症当事者の方に、無理をおして登壇してもらいました。8年前に45歳で認知症と診断され、その後、当事者の視点から発信を続けている方です。「認知症になった人から世界がどのように見え、感じられるのか」を語ってくれているのですが、ぼく自身、そういう視点で考えることは、この番組を担当する以前は、ほぼありませんでした。今回、この方の言葉に触れたり、当事者視点から書かれた本を読んだりして、なるほどこういう世界なのか、と気づいていった感じです。


認知症といえば、「何もわからなくなっていく」「危ない」「介護がしんどい」というようなイメージが強くありますが、出てくれた方の言葉には、認知症へのそうしたステレオタイプなイメージを鮮やかに打ち破っていく力がありました。工夫すればできることがまだまだあることや、認知症ゆえの苦しみや孤独について。長時間、集中して聴いたり話したりすると、とても疲れるという状態にも関わらず、とても明晰に話してくれました。今回の番組は、この方の言葉を中心に、ドクター2名、ケアの専門家1名にそれをさらに拡げてもらう、という作りになっています。


ここからはまったくもって個人的な見解ですが、今回、当事者の言葉やVTR取材を経て感じたのは、認知症ゆえの脳機能の低下とは「PCのスペックが低くなる」ようなものなんだということです。(誤解を生む表現かもしれませんが、あくまでも「脳機能の低下」についての表現です。)同時に3つ4つとアプリを開けていたのが1つしか開けなくなる、アプリが起動するまでにも時間がかかる、起動しても処理に時間がかかる、という感じなんだなと。


でも、逆に言えば、スペックが低くなってしまったPCは、壊れてまったく起動しないPCとは違うわけで、使い方次第でまだまだ使える。軽めのアプリを1つだけ開いて作業するくらいなら、まだまだできる。それなのに周囲の人は、「あのPCもうアカンな」と見限ったり、イライラしたり、「まったく別物になってしまった」と嘆いたりするわけです。それと、ここはもっとも強調したいのですが、ベースのOSは変わっていない。その人のコアにある考え方や感情は、そのまま残っている。でも、周りに色々言われても、処理速度が落ちているから、うまく言葉で返したり、説明することが難しい。入力が多すぎると処理できないし、入力があって、それを処理しようとしても、うまく出力できなかったりもする。具体的には、自分が今、どこで何をしているのかも、不意にわからなくなってしまって、戸惑ったりする。何か言われているが、わからない。わかっているけど、言葉が出ない。認知症の人は、そんな、とてももどかしい状態にあるのだと思います。(少なくとも初期のうちは。高度などになるとどうなるのか……その時期については、本人の言葉がないため、「わからない」としか今の時点では言いようがない。)


認知症」というと一般には「記憶」や「認知」にばかり目が向いてしまうし、どことなく「あっち側の人」であるかのように捉えてしまいがちです。でも、まず認識すべきは、「進行性の高次脳機能障害である」ということではないかと感じます。というのも、障害は出てくるものの、残っている機能があるわけですが、「あっち側の人」と見なして、できることもさせない、すべて「こっち側の人」が替わってやる、ということをしてしまって、残った機能を使わずにいると、残った機能自体も失われていってしまうからです。しばらく入院して歩かずにいると足の筋肉が弱るのと同じことです。その意味で、「あっち側」だと線引きをして、「あっち側の人」としてしまうことには、倫理的にも医学的にも、非常に問題がある。


脳の機能が低下した状態で、脳の機能が低下していない人たちの中で生きていくのは、どんな感じがするものなのか。あるいは、認知症と宣告されたときのショックと悲しみは、どれほどのものなのか。それはどれほど想像しても、おそらく当事者以外には、わからないものでしょう。介護する家族が本人の感じていることを100%わかっているかといえば、決してそんなことはない。むしろ、家族だから、認知症になる前の状態を知っているからこそ、見えなくなっている点もあるはずです。


だから、まず本人の声を聞いていくことというのが必要なのだと思います。本人にはもう声を発する能力が残っていないかもしれない。思考がまとめられない状態かもしれない。でも、まずは聞いてみる。本人をスルーして最初から家族に聞くのではなく。そういうふうにしていけば、(今はさすがに少なくなってきているでしょうが)少なくとも、認知症の人に赤ちゃん言葉で話しかけるような、あるいは、名前を呼ばずに「おばあちゃん」とだけ呼びかけるような、そんなケアのやり方はなくなっていくのではないか。


もちろん、介護は家族にも、ケアワーカーにも、大変な労働(のわりに報いの少ない労働)で、その大変さをどう軽減できるかはとても大事なことだと強く思います。でも、だからといって、家族やケアスタッフや社会や行政の視点=本人以外の視点だけでことを進めてしまってはいけないんだろうと思います。言葉を変えれば、「あっち側の人をどうするか」「こっちにいる人をあっち側に行かないようにするにはどうするか」というような視点のみで進んでしまってはいけないということです。


それでも、まだまだ、そうした傾向は世の中全体にある。それはなぜかというと、これまで、認知症の人で、声を上げられる人が少なかったからだろうと思います。認知症医療が進んで早期発見が可能になり、進行を止めることはできないにせよ、進行を和らげることのできる薬ができた結果、認知症だけど言語能力が残されている、という人が増え、その中で、社会に向けて自分たちの意見を発信しよう、という人たちが現れた。今回、出てくれた人もそうですし、各国で、当事者による発信が増えてきている。(例えばスコットランド。)そうした人たちが声を上げて始めて、当事者以外に、当事者の感じていることが伝わるようになってきた。これは大きなことで、新たな世界が見えてきつつあるのだと思います。


今回、作りながら、様々な気づきがありました。見てくれる人にも、認知症の人の内面について、どのように感じられる体験なのかについて、考えるきっかけになってくれれば嬉しいです。若年性で言葉も明晰な人が特別なのではなく、すべての認知症の人にも、おそらく、程度や進行の差こそあれ、同じことが起こっているのでしょう。ぼく自身、番組を作りながら、はじめて「認知症の人にとって世界はどのように感じられるのか」について想像してみるようになりました。

社会全体が、認知症の人の声に耳を傾けるようになれば、もっと生きやすい世の中になるのではないでしょうか。誰もが認知症になる可能性を持っているのだから(しかもかなり大きな確率で!)、「認知症になってからの人生」は誰にとっても他人事ではありえないはずです。


※最後に、「認知症の本人が決める」ことについて書かれた記事でいいものがあったので、挙げておきます。善意が結果的に本人の意志をないがしろにしてしまうことがあるという、認知症をめぐる状況をよく表しているものだと思いました。

六車由実さんによる記事 「介護民俗学」へようこそ!(15)「認知症の現場で「当事者の声」はどう扱われるべきか」